まちづくりフォーラム

まちづくりフォーラム

『北野・山本地区をまもり、そだてる会』設立25周年 記念事業

まちづくりフォーラム
〜外国人がみる、北野・山本の昨日・今日・明日〜

と き:2006年11月30日(木)
ところ:神戸外国倶楽部
主 催:北野・山本地区をまもり、そだてる会

《敬称略》

コーディネータ
浅木 隆子
(北野・山本地区をまもり、そだてる会 会長)
パネリスト
Ferid Kilki (トルコ)
王 柏林 (中国)
Fritz Leonhardt (ドイツ)
Vidhan Chaudhari (インド)
コメンテータ
弓倉 恒男 (元 神戸海洋博物館 館長代理)

まちづくりフォーラムPDFファイル(1.3MB)
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コーディネータ(浅木)
まだまだお聞きしたいんですけれども、すいません。順番にまた戻りますので。ではLeonhardtさんお願いします。
Leonhardt
Fritz Leonhardt Leonhardtです。時間が来たら言ってくださいね。
私は生まれたのは摩耶ケーブルのすぐ下です。この40年近く、たまたま今またそこのすぐ近くに住んでおります。私が生まれたのは、今さら歳を隠してもしようがないんですけれども、ちょうど戦争が始まったときで、姉が2人おりまして、姉がドイツ学校に行っていたもので、そのドイツ学校がここの北野町にあったんです。今は何になっているかちょっと覚えていないんですけど、フーデチェックさんの向いぐらい。風見鶏じゃなくてあの筋ね。お薬屋さんですか、そこにドイツ学校があったんです。姉がそこへ行っていたので、もちろん家には車もございませんし、バスしかないんですけど、バスもあまりあてにならないので、非常に不便だったので北野町に引っ越してきました。非常にラッキーだったんですけど、北野町に引っ越ししてきてすぐに、摩耶ケーブルの下にあったその家が空襲で焼けたんです。それで北野町に住んでいたんですが、次は、私もまだ小さかったし理由がちょっとわからないんですけど、戦争が終わる前にまた青谷の方に引っ越したんですが、そしたらまた北野町の家が焼けたというので、非常にそういう意味ではついてたんです。
その戦争中、私も小さかったんですけど、不思議なことに結構いろいろ記憶に残っております。この歳になってお昼に何を食べたかは忘れてるんですけど、4歳、5歳、6歳ごろの戦争中の経験はかなり記憶に残っています。先ほどKilkiさんからその戦争中で一番困ったのは食料だと言っていましたけど、幸いうちの場合はドイツ人だったので、この下にドイツクラブがありまして、それでドイツの海軍がよく港へ入ってきて食料を持ってくるんです。それでドイツ人だけあそこに行って配給をもらえたんです。だから戦争中はちょっといい目をさせてもらったんです。だけど戦争が終わったらもうドイツ人は最悪でした。進駐軍が来ましてキャンプとかベースとか病院とか何かいろんな設備があったんですけど、神戸に住んでいるほとんどの外国人は英語ができましたし、バイリンガルの人も多かったのでそういうところに勤めたわけです。ただドイツ人だけはなかなか仕事をくれないんですよね。だからうちのおやじなんかは、ほとんどの国籍の外国人が職をもらってから一番最後くらいに、ちょっとポジションが空いていたらドイツ人にあげようかというようなことで、仕事につくのはかなり遅かったと記憶しております。
その当時、神戸に結構ドイツ人がいたんですけど、うちの青谷の近所にもたくさんのドイツ人がおりまして、戦争が終わってどんどん国に帰らされたんですね。たしか1週間か2週間くらいで国に帰りなさいという命令が来まして、いついつの船に乗りなさいと。うちの場合母親が日本人でしたので、まさか呼ばれないだろうとのんびり構えていたら、近所のやはりドイツ人で日本の奥さんがいたんですけど、そこが帰らされたのでこれは大変だと。うちも順番が回ってくるかもわからないというので、家の家具とかそういうのを全部売って待っていたんです。待っても待ってもお呼びがなくて、結局それがよかったと思います。当時は日本よりもっと戦後ドイツの方がひどかった。ドイツに帰ったうちの親の友達なんかから、ものすごく苦労をしたというように聞いています。それで、戦後私も学校に行く歳になったんですけど、ドイツ学校がもうなくなってしまっていて、それで神戸にいる外国人といったら皆インターナショナルスクールにしか行けなくて、その当時はこのトアロードの下に今でもありますミカエル国際学校と、女の子はもう一つ下の方に、今名前が変わったと思うんですけどワシントンホテルのあったところにセントメリーズという女の子だけのカトリックの学校がありました。女の子はだからチョイスがあったんですね。だけど男の子はミカエルしかなかって、私も北野町に住んでいなかったんですけど、ミカエルに行っていましたから、それと友達がたくさんこの辺に住んでおりましたし、学校の帰りはほとんど北野町で遊んでいました。先ほどトアホテルの話も出ましたけど、火事になって焼けちゃったのは戦争が終わって2〜3年ですか。戦後すぐは進駐軍がここをオフィサーズ クラブに使っていて、パーティか何かをしてて燃やしちゃったと。それでその後焼け跡になっていまして、ただ土台、ファンデーションだけは残っていまして、子供の遊び場にはすばらしかった。迷路みたいになっていて、私はよくここでかくれんぼとかして遊んでおりました。
もう一つトアロードに記憶があるのは、あのころ我々はそんなにいいおもちゃを持っていなかったので、自分で木で飛行機みたいなのをつくって、ベアリングと言うんですか車をつけて、それに乗ってトアロードを降りていたんですけど、いまだったらもう何秒かで即死ですけど、あのころはトアロードをそんなものに乗って遊んでおりました。またそれでは後で。(拍手)
コーディネータ(浅木)
ありがとうございました。それでは次にVidhan Chaudhariさん。お願いします。
Chaudhari
Vidhan Chaudhari こんにちは。ここに来れて光栄です。ちょっとお父さんのかわりにきました。おじいちゃんが最初神戸に住み始めたんですけど、1958年に真珠の仕事でここに会社を建ててやり出したんです。僕はもう3代目になるんですけど。
僕が生まれたのはインドなんですけど、お母さんが子供を産むときはインドに帰っていただけなので、2カ月後くらいは日本に帰ってきました。最初は中山手通りの方の自民党ビルの隣に5歳まで住んでいまして、5歳から神戸クラブの手前、白い家があるんですけどあそこで11年も住んでいました。Mr.Leonhardtとすごく似ていますけど、聖ミカエル学校にちょっと早かったんですけど、2歳から11歳まで通っていたので、似た感じに友達がみんな北野町に住んでいて、海外の方がいろいろイスラエルの子供とか、イランの子供たちとかインド、中国、ドイツ、ユーゴスラビア、いろんな国の人と仲よく遊べて楽しんだところがすごい北野町の魅力というか、好きのところです。その後からはカナディアンカレッジに通いましたので、16歳からは御影山手の方に引っ越しして、今はそこに住んでいます。僕はまだ若い方なのでそれで話を終わらせます。(拍手)
コーディネータ(浅木)
そうしたら弓倉先生。
コメンテータ(弓倉)
弓倉 恒男 ここまでは本当に神戸っ子の話ですけれども、私は中国で生まれ、両親はきっすいの和歌山県人で、教育を京都で中・高・大と受けて、そしてここへやって来たわけです。だからここまでは神戸っ子で、ここからは外国人です。
私のこの地区との関わりということですと2つあります。一つは仕事が神戸市役所に勤めていましたので、当然いろいろな仕事の中に商業地区の開発というのがあります。それに若干かかわっていたと。それから就職後間もなくからこの地域に住むことになりましたので、その2つでこの地区にかかわりがあるんですが、仕事上、なぜトアロードというのかということをたびたび市民の方々やいろんな方々から聞かれて、そのたびに図書館に行って調べるんですけれども、あまりはっきりしたことがわからない。やがて退職したら暇に任せて調べようかと、そういう目論みを持っていたわけです。で、本腰を入れて調べてみますと、なかなか奥の深いところがありまして、それがこの地区、それから神戸の歴史に対する関心を非常に高めたというふうに言えるんじゃないかと思います。一冊の本にまとめたりもしました。
神戸が本当に開港し世界に開かれたのが1868年。ちょうど来年は140年目の年になります。140周年は再来年の2008年になるわけですけれども、そこはちょっと数え方が違うんで皆さん気をつけていただきたいと思いますが、関心はその開港と同時にできた神戸外国人居留地。それとこの山手の北野・山本地区に居を構えたここら辺ですね。それが一つの都市地区といったようなものを形成して、ヨーロッパの文物がそれを中心に浸透していった。そういうところに非常に興味があり、今、神戸外国人居留地研究会の一員としてぼちぼちやっております。ここ2年ぐらい、この神戸クラブの会員だったウィリアムスさんという人がおられて、もう20年近く前に亡くなられておりますが、この方は長い間、このクラブの有名な会員だったんですが、仕事の傍ら歴史に非常に興味を持って、神戸クラブという英語の本を書いております。これは戦前編と戦後編があるんです。これを4人の学者と私と共同で訳して、機関誌でも出すようにしておりますが、また後ほど、いろんな折に触れて申し上げたいと思います。(拍手)
コーディネータ(浅木)
ありがとうございます。皆さん1人ずつのお話が本当に充実しているのでゆっくりお聞きしたいんですけど、時間の関係でとびとびにいきますが、お許しください。
私たちが知らない戦前、戦中の話を興味深くお話いただいていますが、外国人にとってこの町のよいところ、悪いところ、お住まいや町の環境はどうだったとか、あるいは外国人のコミュニティ、日本人との交流、そしてご近所づき合いですね、そういうのはどうだったかということをお聞きしたいと思います。
Kilki
戦争中なんですが、隣近所は皆日本の方ばっかりでございまして、これという問題は全然ございませんでした。非常に仲よく暮らしていまして、その当時は神戸、特に中山手から山本通と北野町あたりは異人館がたくさんございまして、外国人もいろいろの国から来ておられた方がたくさん住んでおられました。外に出てだれかに会うと必ず顔見知りで、知らない人はいなかったような状態でございました。戦後、異人館がだんだん老化しまして、維持費が非常に高くつくものですから、外国人もぼちぼちとそれを手放すようになりました。昔は修理とかいろいろ全部個人でもたされまして、それから何年かたってから神戸市の方から援助金も出るようになりましたんですけれども、私の家も、2年ごとにペンキをし直さないとはげてしまうわけなんです。そういうことで非常に苦労をしましたですね。北野町というところは外国人が特に多く、神戸市でも一つのかわった地域であって、戦争中に国に帰った方々も、戦後はぼちぼち帰ってきておられました。
それから風見鶏をNHKがやりましたあと、日本全国からも観光の方々がたくさん来られるようになりまして、非常ににぎやかになりました。確かに神戸市としても非常に喜ばしいことでございましたが、中にはいいことばかりでもございません。一番困ったのが便所なんですね。便所がないので、街角あたりで用を足されたりなんかして。それから飲み物、缶ジュースとかいろいろ持っておられますけど、飲んだ後それを捨てる場所がないからぽいっと庭の中に捨てられるわけです。そういうことで、一時外国人の間でも、北野町というのは汚い町だということもございました。しかしそれもだんだんと解消されまして、長いこと続いた観光の方がいまだに来られるということは、非常に神戸市としてもうれしいことではないかと思います。今私は御影に住んでおるんですけど、北野町というところは非常に愛着がございまして、いつまでもきれいな町として続けていってくれたらなとこういうふうに思っております。(拍手)
コーディネータ(浅木)
ありがとうございます。まもり、そだてる会もトイレやごみの問題でみんなが頭を悩ました結果できまして25年たった会でございますので、本当によくわかります。
少しまた古い話に戻りますが、私の少年時代、夏の日にはよく住んでいたグラシアニ邸の門の階段のところに立って眺めておりました。そうしたら外国人の老夫婦が手をつないで散歩をしておるという、そういう風景が今でも記憶に残っております。何とも言えない風情のある夏の昼過ぎという感じで、今から思いましてもすばらしいなと思うんですが。これはちょっと余談ですが、私は諏訪山小学校で模型飛行機をつくっておりました。それで特に胴の長さが70センチ、羽の長さが1メートル近い飛行機の試験飛行をあの通りでやりましたら、それが外国の老婦人の頭にぼーんと当たりまして、怒った老婦人がバリバリッと飛行機をつぶしてしまいましたんで、私は泣いてしまったんですが、しかし悪いことをしたなと思う一方、その外国人のご婦人もまた恨めしやと思ったわけでございます。そういう老人夫婦が手をつないでゆっくり歩いて散歩を楽しむというふうな風情が、北野町界隈でもうできないんじゃないかなという気がする一方、やはり町は栄えてほしいとも思いますが、ただもう少し昔の北野町の雰囲気を取り戻していただきたいと、静かな落ちついた異国情緒のある町を取り戻してもらいたいと思います。これはしかし神戸市の観光という観点から、観光政策という観点から考えても、そうぜいたくなことも言えないとは思いますが、少なくとも観光バス何かが通るのはあんまり感心しないように思います。端で降ろしてまたその端で乗せるとか、何か工夫を考えてですね、昔の北野町の雰囲気をできるだけ再現していただくように、神戸市の方には何か知恵を絞っていただきたいなと思います。以上でございます。(拍手)
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